マリー・アントワネットの白髪
コンシェルジュリはセーヌ川沿いに建つゴシック様式の建物。隣りの最高裁判所やサント・シャペル教会同様、シテ島内にある。フィリップ4世(美貌王)によって14世紀始めに王宮として建設され、16世紀までは王室管理府の建物となっていた。
王妃マリー・アントワネットは最後にはここに収監され、隣りに建つ最高裁判所で裁判を受けた。その裁判となるや非常に雑で一方的なもので、国民から徹底的に憎まれていたアントワネットなどは最初から有罪が決まっていたようなものだった。
いきなり老けこんだマリー・アントワネットの肖像画。なんだか普通のおばさんという印象だ。これで38歳だというから、いかに悲劇的な運命を辿ってきたかわかるというものだろう。
1789年のフランス革命勃発後、パリに連行された国王一家は3年弱をチュイルリー宮で過ごしたあと、国外への逃亡を図った(ヴァレンヌ事件)。だが、国境近くの村で正体がばれ、パリに連れ戻されてしまう。
この緊張と恐怖のストレス体験により、マリー・アントワネットの髪は老婆のような白髪に変わってしまったと言われている。敵国オーストリアへの逃亡を図ったということで、国王への信頼は完全に失墜した。
翌年の王政廃止によりルイ16世は王権を剥奪され、ただのルイ・カペーとなった。それまでは立憲君主国という道も残されていたのだが、人心は完全に国王から離れてしまった。逃亡事件は完全な裏目となったのである。
民衆にチュイルリー宮を襲撃され立法議会場へ逃れたあと、一家はタンプル塔に幽閉される。使用人や料理人も同行したというから、案外優雅なものだ。1793年1月、ルイ16世処刑。半年後、次男ルイ・シャルル(ルイ17世)が引き離される。
そして8月、マリー・アントワネットは長女マリー・テレーズと義妹エリザベス内親王を残し、裁判を受けるためコンシェルジュリに移送された。カペー夫人と呼ばれていた彼女は、このときから「女囚208号」となる。
アントワネットはコンコルド広場に据えられたギロチン台の上で処刑される。処刑後、アントワネットのなきがらはマドレーヌ墓地に運び込まれ、亡き夫と同じ共同墓地に埋葬されることになった。だが、役人たちは両足の間に首を置いた遺体を草むらに放置したまま昼食に出かけてしまい、ようやく埋葬されたのは2週間後のことだった。
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